始業と終業を告げる鐘の音というのは、どうしてこうも無機質なのだろう。
僕はそんな事を思った。
教室内のスピーカーから垂れ流されるその音は、毎日何も変わることなく、ただプログラムされた通り定時に時間を知らしめている。
情緒のほんの一欠片も含まれない、記号的な音階を辿るだけの単音の連なり。
聞き慣れた音のはずなのに、何処か僕の耳には馴染みきれていないような感覚がある。
始業の時ならまだいい、と思う。
前もって席につき授業の準備も済ませているから、時計を見てベルが鳴ることへの心構えを持つ事が出来る。
けれど終業時というのは、教師の話に聞き入っている時だったり板書をノートに写している時だったり、或いは集中力がやや削がれ始め、思考が脇に逸れがちになる頃合いだ。
そんな時に、まるで不意打ちのように突如響き渡るあの鐘の音は、あまりに無遠慮が過ぎるのではないかと思う。
僕は表に出す事さえなかったけれど、その音に内心ドキリとさせられる事がよくあった。
小学校の頃からずっと何度も繰り返し聞いてきたというのに、何の感慨もない。
単調で平淡で甲高く、そして中途半端な重音を持つそれが、僕は昔からなんとなく苦手だった。
思ったのは、ほんの僅かな刹那だった。
三時限目終了の礼をすると同時に、教室内に微かなざわめきが広がる。
次の四時限目は歴史であり、日本史と世界史に分かれる事になる。
指定の別教室に移動しなくてはならないため、授業が終わると同時に席を立つ生徒も多い。
何人かがガタガタと椅子を鳴らし立ち上がるのを皮切りに、途端忙しない空気が教室の中に充満した。
午前最後の授業、僕は世界史を取っている。
別棟の教室まで移動はそう時間も掛からないものの、早めに行くのに越した事はない。
いつも行動を共にしている友人達と、教室を出る。
先週出された課題プリントの答えを見せ合ったり、他愛ない会話と小突き合いをしながらの慣れ親しんだ移動時間の中、ふと窓の外を見れば、空を覆う雲の切れ目から太陽が覗いているのが見えた。
思わず目を細める。
午後にかけて晴れるのだろうか。天気予報では確か、今日は一日中曇りだと言っていたような気がするが。
首を前に戻しかけて、ふと視界の端に見覚えある人の後ろ姿を見つけて、一瞬足を止めた。
少し離れた廊下、開け放たれた窓の傍で枠に手を掛けたままその場から動こうとしないその人は、いつもと少し様子が違うように思えた。
気のせいかもしれない。そうでないかもしれない。
時たま通り掛かる生徒はやはり移動教室や用足しがあるらしく、特にその人を気に留めるでもなく通り過ぎていく。
僕は一番傍に居た友人に「トイレに寄っていくから」とだけ伝えてグループから離れた。
たまたまその人の居た方向は手洗い場が近かったから、怪しい事でも何でもない。早歩きに近付き、声を掛けた。
「さん、どうかしたんですか」
外の空気を吸っていたようで、彼女は開いた窓の外に顔を向けていたので、自然と背後から話掛ける形になった。
その人がのろのろと振り向くまで表情も見てとる事が出来なかった。だから、
「ああ、荒井くん。……次って教室移動になるんじゃ、なかったっけ?」
そう言いながらこちらを捉えたその顔が、微かに青い事に気付くのに少し時間がかかった。
いつもなら薄く紅に色付いている頬からは血の気が失せている。
口調も表情も普段と然程変わらないようだったけれど、其れはそう見せかけているだけだと思えた。
何処か具合が悪いのではないだろうか。
「そんな事より顔色が良くありませんよ、大丈夫ですか」
「うん。まあ、平気。……ただの頭痛だよ」
「いつからですか」
「つい、さっき……」
そんなふうに区切り区切り言ったが、彼女はその場をそのまま動こうとしなかった。
静かに繰り返されているその人の呼吸はゆっくりだが深いもので、口から吐息が漏れている。
顔を覗き込んでみたけれど、汗はかいていないようだった。
そうするうちにもさんは続ける。「鎮痛薬、これから呑むから。それより早く行かないと、次の授業に遅れるよ」。
言うのを遮り、僕はその人を促した。
「保健室、行きましょう。ご案内しますから」
「ううん……そこまでしなくても」
「実習生控室の固くて冷たい机の上で休むというのは、あまりお勧め出来ませんよ。具合が悪い時くらい、ちゃんと横になるべきです」
さあ、ともう一度言い掛けた時、出し抜けに四時限目始まりのチャイムが鳴り響いた。
まだ廊下に残っていた何人かの生徒達が、慌ててバタバタと駆け出していく。
鐘の音の残響が少しの間校内にその尾を引き、やがてプツンと途絶えるように消えた頃になって、さんはその首を小さく縦に振った。
微かに消毒液と薬品の匂いがする保健室は、いつもと変わらず訪問者を迎えてくれる。
ただ保健医である岩崎先生は席を外しているらしく、誰の姿も見当たらなかった。
何か所用でも出来たのだろうか。電灯が点けられたままという事からすれば、そう遠からず戻ってくるとは思うのだが。
まっさらの白のシーツで整えられたベッドにさんを座らせた後、念のため薬品棚を見てみる。
当然だが施錠されており、薬を取り出す事は叶わなかった。
「わたし、自分で持ってるの呑むから。大丈夫だよ」
そう言って彼女はポケットから取り出したアルミとプラスチックのごくごく小さな市販薬の包みを示した。二錠。
僕は肯き、水道からコップに水を汲みそれを差し出す。
さんが一時に飲み下し、一つ息をつくのを見届けてから、僕は机の上に置かれていた体温計を差し出した。
「念のため、熱も計っておきましょう。頭痛を伴う風邪なんていうものもありますから」
「……荒井くん、何だかすごく手慣れてるね、こういうの」
「僕、保健委員ですから」
「ああ、そうなんだ」
言いながら僕の手から電子体温計を受け取ると、彼女は無造作にシャツの襟元のボタンを外していく。
脇の下で計るのだから当たり前なのだけれど、慌てて僕は目を逸らした。
女性なのだから、もっとその辺りの事は気にしてほしいと思う。
それとも彼女にとって僕は子供であり、男としては見てもらえていないという事なのだろうか。
逸れそうになる思考を振り払おうと内心で首を振っていると、体温を計りながらさんが徐に口を開いた。
相変わらず、顔の色はあまりいいとは言えない。
「荒井くん、四時間目遅刻させてごめんね」
「構いませんよ。それより、無理しないで横になった方が楽だと思います」
「……うん」
やはり少し辛いらしく、彼女はそのまま半身を横たえた。
脚だけを腰掛けていた時のまま、床にくっつけている。
やがて体温計が機械的な電子音を立てたので、さんは其れを脇から抜き僕に示した。
「36.1度……熱はないようですね」
「うん。頭痛だけ。……頭が痛くなるのは久しぶりだよ、やっぱり嫌なもんだね、何処かが痛いっていうのは」
「無理して喋らなくていいですよ。薬が効くまでは、話すのも億劫でしょう」
「……うん」
彼女は素直に肯き、そのまま目を閉じた。少し眠った方がいいのかもしれない。
僕は体温計を机の上に戻しながらふと時計を見やった。
まだ授業が始まって十五分程しか経っていない。
今からでも世界史の講義を受けには行けるだろうけれども、出来れば岩崎先生が戻ってくるまでは此処に居たいと思った。
事情を説明し、さんを託してからでなければ安心する事が出来ない。
「さん。……保健の先生が帰ってくるのを待って、僕から話しておきますから。眠いようでしたら眠ってください。もし、暫く待っても先生が来ないようなら、事情を書いたメモを残していきますから」
「……うん。ありがとう」
目蓋を伏せたまま、言葉少なにその人は言った。
薬が効くまでまだ時間が掛かるだろう。
僕は細く開いていた窓を押しやり、出来るだけ新鮮な空気が入るようにした。
首を持ち上げれば、流れる雲の端々に空の青が見つけられる。やはりこのまま晴れるのだろう、午後には気温も上がるだろうか。
その頃には、さんの具合も良くなっていればよいのだけれど。
振り返ってみるとさんはとても静かで、けれどまだきつめに目を閉ざしている。
僕はベッドの傍に歩み寄ると端にそっと腰を下ろして、そのまま彼女の様子を見守った。
何か出来る事があればいいのだけれど、今は時間が過ぎるのを待つしかない。
窓際のカーテンが夏風に揺れている。
外から何処のクラスか、体育での何か掛け声のようなものが届いてくるのを聞き流しながら、
「まるであの時のようだ」 とぼんやり思う。
つい数日前の事を僕は思い起こした。あの時も今のように四時限目で、僕とこの人しかいない時だった。
誰もいない図書室、眠ってしまったその人、翻っていた白地のカーテン、流れていく始まりの夏、近付いてくる別離までの時間。
隣を見下ろすと、あの時と同じように彼女は其処に居た。
「さん……」
僕は呼び掛けるように、小さく呟いてみる。
すぐ傍に居る人に、反応はなかった。眠ったのだろうか。
確かめるように、「さん」、ともう一度繰り返す。相変わらず彼女は静かだった。今なら。今、この時なら。
僕はまた、その人を呼んだ。いつもとは違う呼びかけで。
「……、さん」
声の音は、夏の空気に融け入るように消えた。
見れば、さんの表情はさっきよりもやわらかくなっている。薬が効いてきたのだろうか。
その様子に少し安堵するものの、僕は次の瞬間、ベッド周りの仕切りのカーテンを引き、気付けば彼女の顔に自分の其れを近付けている事に自ら驚いている。
躊躇いが無いわけではなかった。なんて身勝手な行為だろうと思わないわけではなかった。
けれど、己がこれから行おうとしている行動を抗う事は出来なかった。
僕は糊の効いた固めのシーツに、ひやりと冷たいベッドのパイプに其々手を置き、目の前のその人を見下ろした。
こんな状況でもなければ、僕にはこの人の下の名を呼ぶ事すら叶わない。そしてこの先もきっと、おそらくは。
そんな事が頭を掠めて胸の奥が僅かに焦がれたけれども、今はどうでもよかった。
そのままさんに顔を寄せようとして、
「すいませーん! 先生、突き指しちゃったんですけど……」
急に引き戸の開く音と同時に、女の子らしい声が響き渡ったので、僕はギクリと身を凍らせた。
ふと我に返って、慌ててさんから身体を離す。
自分が何をしようとしていたのか今になって初めて思い至ったかのように、かあっと顔が熱くなる。
そうこうしているうちに、突然の闖入者は岩崎先生が不在である事に気付いたようで言葉を途切れさせていた。
直ぐに、ベッドの仕切りカーテン越しの僕たちの事に気が付いたようだった。
先程とは打って変わったように声のトーンを落として訊いてくる。
「あ……あの、岩崎先生は……?」
「……僕もさっきから待っているのですが、暫く戻っていないんです」
極めて平静を装ったが、向こうにはそう聞こえているだろうか。
「そうなんだ。……あ、それと、私が来る少し前に早苗ちゃ……、女の子が来ませんでした? 保健室行くって言ってたんですけど……」
「いえ、誰も来ていませんが」
ジリジリと言葉を返しながら、向こうがこの部屋を去るのを待つ。
不意に、向こうの脚が此方に向いたまま、ピタリと動きを止めた。
あまり長くない丈の仕切りカーテン、その切れ目の先に覗いている訪問者のズックには、一年生を示す色が施されている。
そして此方から見えているという事は、向こうにも見えているという事だ。
僕はグッと息を呑み込んだ。
僕の脚はもちろん、横になりながらも床に力なく投げ出されたままのさんの脚も視界に入っているのだろう。
カーテンの向こうに居る女生徒に、おかしな意味に取られても文句は言えない。
実際さっきまで、自分はあまり健全とはいえない事をしようとしていたのだから。
妙な沈黙が落ちた。
ほんの数秒があまりに長く感じられたけれど、
「……じゃあ、私、先生探しに行ってこようかな」
独り言のようにも僕に対して言っているようにも取れる口調で、その一年生は保健室を出て行った。
暫しの間その足音が遠ざかるのを待ち、それからゆっくりと息を吐いた。
「……さっきの子、先生見つけられるかな」
存外はっきりした声がすぐ傍から上がった。
見れば、さんは額に片方の手を当てながら、目を閉じたままで声を発したようだった。
「起きていたんですか」
「寝てたのは少しだけだよ。さっき来た子のおかげで目が覚めたみたい」
「……そうでしたか」
あの一年生がもし来ていなければ、と思うとほんの少し恨めしく思わないでもない。
けれど、そんな気持ちを一瞬でも抱いた自分の方に嫌気が差してくる。
心の中で溜め息をついていると、続けてさんが言った。
「ところで荒井くん、授業の方は? もしかしてサボっちゃったとか?」
「……そう解釈して頂いても構いません」
「ごめんね、結局最後までついててくれたんだ」
「謝る必要はありません、僕が好きでした事ですから。それに、サボるなんて滅多にない事ですし、たまにはいいでしょう」
こうして貴方と過ごせるのなら。
そう口の中で付け加える。さんはふっと笑った。
「わたしも、高校時代の事を振り返れば人の事は言えないからなあ」。
悪戯っぽくそう続けるその人は大分調子が戻ってきたのか、顔色も回復してきたように見える。
薄くその目が開き、僕と視線がかち合った。
「今、何時かな」 と訊ねられたので、腕時計に目をやり既に正午を回っている事を告げる。
四時限目終了まで、残り時間は僅かだった。
「もうじき、チャイムが鳴ってしまいますね」
「そうだね」
「……鳴らなければ、いいのに」
「荒井くん、サボり足りないの?」
「そういう意味ではないのですが……」
僕は失笑を漏らした。
どうも、この人のペースには参ってしまう。
けれどさんは、 「でも確かに」 、と急に肯いて僕の言葉を肯定する仕草をした。
「鳴らなければ、荒井くんとずっとお喋りしていられるのにね」
言ってしまってから彼女は、
「あ、教育実習生としてはサボりを助長するみたいで宜しくない発言だったかな」 、なんて呟いたりしている。
僕はまた小さく笑いながら、いつもとは違う理由で、少しでも終業の鐘が鳴るのが遅くなればいいと思った。
仕切りのカーテンを開けた向こうには、白い日差しと共に六月の青空が窓の外に広がっている。
午後はやはり、暑くなりそうだった。
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